日月神示と宇宙の法則から学ぶ幸運をつかむ法
岡本天明氏が自動書記で書いたという神からのお告「日月神示」と
中矢伸一氏などの「日月神示」の翻訳著書、さらに宇宙の法則(引き寄せの法則)から学ぶ、
日本ルネッサンスの研究と実践のブログです。
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DATE: 2013/10/29(火)   CATEGORY: 幸福
「目から鱗が落ちる」によるウロコポーロ理論とは?! もっとあの世に聞いた、この世の仕組み より
もっとあの世に聞いた、この世の仕組み
ブログ より まとめ

「ウロコポーロ理論とは?!」

早速「ウロコポーロ理論」のお話を進めていきたいと思いますが、その前に。

まずはですね、この「ウロコポーロ」という、この言葉のニュアンスから
お話していきたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【ウロコポーロ】
目から鱗が落ちるさま。また、その人。
「目から鱗が落ちる」という慣用句を、ユーモアとともに見事に単語化した言葉。


「目から鱗が落ちる」という慣用句を辞書で調べてみると、そこには驚きの事実が。


*****
目(め)から鱗(うろこ)が落(お)・ちる
《新約聖書「使徒行伝」第9章から》何かがきっかけになって、急に物事の
実態などがよく見え、理解できるようになるたとえ。

*****


と、いうことで、この言葉の語源は「新約聖書」。
そしてまさに「キリストを迫害していたパウロ(サウロ)が目覚めを経験し、
回心するエピソード」から、来ていたんです。

で、さらに調べてみますと、この「鱗」は、魚の鱗のことではなく、
蛇の鱗のことだそうで。(蛇の目は鱗で覆われています。 脱皮のときに目の鱗も
一緒に剥がれるため、「目から鱗が落ちる」んだそうです)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「目覚め」も「気づき」も「アセンション」も「悟り」も、その言葉の奥に、
なんというか「何か新たなものを知った」というようなニュアンスを感じたり
しませんか?

「覚者」と聞くと、どこか「あらゆる真実を知った人(過ちを犯さない人)」を
イメージしてしまいませんか?

でも、僕がお話している「目覚めの一瞥」や「ウロコポーロ」のニュアンスは、
それとは、ちょっと違うんです。

「すべてを知った」というよりも、「誤っていたことに気がついた」と
いうことなんです。

「正しさを知った(得た)」のではなく、「鱗(思い込み)が落ちた」だけ
なんですね。


勿論、鱗が落ちた分、視界は以前よりクリアになっています。

でも、目の中にある鱗は、1枚や2枚じゃないんですよ。

「まだ入ってるのかよ!」と、さまーず三村さんのテンションで突っ込みたくなる
ぐらい、いろんな種類の鱗が入ってる。

だから僕は、「真実を知った者(覚者)」ではありません。
「目から、いくつかの鱗が落ちた者」です。

そしてまたその経験から、「ウロコ」の存在と、そのウロコを目に入れたがる
人間の心理に気づいた者です。

さらにさらに、一度落ちたウロコを、わざわざ目に入れ直したりもする者です(笑)


だから、僕がここでお話しているのは、絶対的な真理の提示ではありません。

そしてまた、僕好みの価値観・観念を広めることでもありません。

そうではなく、僕たち人間が、すでに持ってしまっている「自分自身の可能性を
閉ざし、自らを不自由にしている価値観・観念(鱗)」の存在に気づいて欲しい
だけなんです。

ここは大事なポイントなので、改めてお話します。

僕の話を「情報として得る」ことは、あまりオススメしません。

そういう使い方を前提としてこのブログに関わると、それは新たな「鱗」に
なってしまいます。

それは、僕のしたいことと真逆のことです。

僕の話は、あくまで「目から鱗が落ちる」を経験するための一つの切っ掛として
使ってください。

「得る」のではなく「落とす」(厳密には「落ちる」。自我には落と
せません)ために、使ってください。


僕は頻繁に「極端な話し方」をすることがあります。
知っておいて欲しいのは、僕がその話(話し方)を持ち出したのは、
別な意図があってのことだということです。

その意図とは、「無数にある鱗の中から、ある特定の鱗を、ピンポイントで
落とそうとしている」というものです。

「その鱗」が目に入っていた人は、そのメッセージを切っ掛けに「あっ!そうか!」
となる可能性がありますが、その鱗がない方にとっては、まるで意味を持ちません。
まるでピンときません。僕が、何を話そうとしているのかが掴めません。

だって「元からその鱗がない人」は、
「その鱗があることで、どんな世界が見えるのか」が、わかりませんから。

そして、そのギャップの中に、様々な意見が飛び交い、収拾の付かない論争が
生まれてしまうんです。

ですので、ピンと来ないときは素通りしてください。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『目から鱗が落ちる』とは、「何かがきっかけとなって、急に物事の本質・実体などが
よく見え、理解出来るようになる」ということです。
その背景にあるのは、それまで自分の抱えていた固定観念の喪失や崩壊。

「新たな知識を得る」ことによってではなく、「保有していた思い込みが
喪失」されることによって経験されるのが、ウロコポーロです。


つまり、人間一人ひとりが保有している「思い込み」や「固定観念」こそが、
目の中にある鱗の正体。

それは「ネガティブ」と言われる要素だけではなく、ありとあらゆる概念が含まれ、
僕たちが当たり前に活用している「常識」や「通説」、「信念」や「信仰」なども
含まれます。

この鱗のことを、精神世界では「マインド」などといった名称で呼んでいます。

人間が経験するあらゆる苦しみは、この鱗の量に比例します。
鱗を重ねていくごとに、どんどん世界が歪んで見えていきます。
その歪みが、そのまま苦しみや痛みとなって感じられます。

しかし、その人にとって、どんなに世界が歪んで見えていても、世界そのものが
歪んでいるのではありません。
歪んで見せている「鱗」があるだけなんです。

いや、もう少し正確にお話するなら、『そもそも「世界」というものが実在して
いないのに、鱗があることによって、それが実在しているかのように錯覚して
しまっている』という方がいいのかもしれません。

僕たちが感じているこの「世界」は、存在はすれど実在はしないマト
リックス(超バーチャルリアリティ)です。


もし、このことを認められないのであれば、是非実在する「世界」というもの
を探してみてください。

突き詰めていけばいくほど、「世界」どころか「社会」や「国家」、あなたの
勤める「会社」や、通っている「学校」も実在しないことがわかっていくで
しょう。


「これはこれである」「あれはあれである」「私は○○である」
「彼は○○でなければならない」「彼女は○○をしてはならない」
「この事態は○○である」「この状態に私は○○な対応をすべきである」
などといった鱗の束が、その人独自のマトリックス(仮想現実)を
生み出します。


このことを逆に捉えると、そういった観念から解放されるごとに、
世界の見え方が変わっていく、マトリックスから脱していく、
ということになります。

そして、あるレベルまで鱗が落ちると、世界の見え方が急激に転換します。

でもそれは、
「ネガティブ(不幸)(負)が、ポジティブ(幸福)(正)になる」
という質のものではありません。
「ネガティブ」も「ポジティブ」も、どちらも「鱗」であったことに
気づく地点です。
「自分」も「他人」も「世界」も「時間」も、すべてが「鱗」を
通して見えた幻影であったことに気づく地点です。

そしてその気づきは、一瞬の出来事です。

「じわじわとゆっくり目から鱗が落ちた」という経験をした人は
いないと思います。
ウロコポーロは、「あっ!!」というインパクトがあってこその
ウロコポーロです。

「あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」と、
時間をかけて目から鱗が落ちた経験はありませんし、そういう人を、
見たこともありません。

そしてまた、「わたしの目から鱗は落ちたでしょうか?」と、
尋ねるのも何だか変な話です。

ウロコポーロは、「あっ!!」という明確な自覚があってこその
ウロコポーロですから。

でも、人によって「一度に何枚の鱗が落ちたか」という差は
あり得ます。

一枚ずつ落ちていけば小さな気づきの連続で、徐々に世界が変わって
いくでしょうし、一気に何枚もの鱗が落ちれば、それに比例しただけの
インパクトを感じることと思います。

で、その中に、日常の気づきとはちょっと次元の異なるウロコポーロ
・ポイントが存在します。

そのポイントの特徴は、意識ステージの移行を伴うことです。
このステージの移行によって、理解できる法則や運用するツールが
異なってきます。

ウロコポーロは、目の中に鱗があってこそ、はじめて経験できる喜びです。

もともと鱗の無い人が、ウロコポーロを経験することはできません。

さらに。
ウロコポーロは、目の中の鱗が、どんな鱗なのかがわからないからこそ、
面白さがあります。

「うわっ!」とか「えええっ!!」という驚きは、それを想像もできな
かったからこそ得られるものです。

既知の中に、驚きはありません。

だからこそ人は、自分が当たり前に実現できることを叶えても、そこに
喜びは見出しづらく、なかなか叶いそうもないことが実現することの中に、
確かな手応えや喜びを感じます。

鱗の量が増えることは、間違いなく苦しみを増やすことに繋がります。
しかしながら、鱗の量が多ければ多いほど、それが落ちたときの喜びは
大きなものとなります。

視力のいい人が、わざわざ度の強いレンズの眼鏡をかけていると思って
ください。
度数が合わなければ合わないほど、その眼鏡を外した時に開ける視界の
良好さに感動することでしょう。

それは、「視力が矯正されたことによる喜び」ではなく、
「もともと視力に問題がなかったことを知る喜び」です。

ウロコポーロの感動が小さくなるけど、その分苦しみを少なくするか、
それとも、苦しみを沢山抱えて、その分ウロコポーロの感動も
大きくするか、その選択・楽しみ方は、自由です。

とにもかくにも、自覚の有無にかかわらず、
この世はこの「ウロコポーロ」を楽しむための仮想現実世界です。


いうなれば、神が創り出したゲーム、超リアル・オンラインRPG
『幻想見聞録~ウロコポーロの冒険~』の世界。


このゲームは、人智を超えた、神の創造性によって生まれたクオリティを
誇ります。
そのクオリティの高さゆえ、あなたはゲームの世界にのめり込みすぎ、
ゲームの「キャラクター」になりきってしまいました。

ゲームの世界の外の次元にいる「プレイヤー」であることを、すっかり
忘れてしまいました。

なんせ、誰もが納得の、とんでもない「このリアルさ」なのですから。

このゲームをプレイする際の「意識」が、「キャラクター」の次元に
あるとき、それは「自我」や「顕在意識」といった呼ばれ方をします。

そして、「プレイヤー」としての次元にあるとき、それは「ハイヤー
セルフ」や「高次の自分」といった呼ばれ方をします。

さらに、意識が「ゲーム開発者」としての次元にあるとき、それは
「真我」や「潜在意識」といった呼ばれ方をします。

もしアナタがプレイヤーであることを忘れ、キャラクターと同一化して
しまっていても、大丈夫。

そのことを嘆かないでください。

実は、その「忘却」すら、ゲームの一要素(ファーストステージ)と
して用意されたものだからです。


次回からは、この『幻想見聞録~ウロコポーロの冒険~』のゲーム構造と、
いくつかに分かれるゲームステージの特徴をお話していきたいと思います。

もっとあの世に聞いた、この世の仕組み
http://blog.goo.ne.jp/namagusabose/



目から鱗が落ちる話はわかりやすく面白かった。

「すべてを知った」というよりも、「誤っていたことに気がついた」

「正しさを知った(得た)」のではなく、「鱗(思い込み)が落ちた」


そうなんです、ここが肝心。
得るのではなく、手放してゆくことなんですよね。


次の『幻想見聞録~ウロコポーロの冒険~』のゲーム開発秘話も傑作です。

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DATE: 2013/10/24(木)   CATEGORY: 幸福
幸せは追求した結果ではない! Joy 喜び(OSHO)より 書評と感想

Joy 喜び (OSHO) 書評と感想

どうしたらいつでも喜びや幸せを感じていられる?
著作は650冊、世界40ヶ国で大ブームを巻き起こした
スピリチュアル・ティーチャーによる真の喜びを
得るためのスピリチュアル入門書。
山川夫妻、渾身の名訳!

Joy 喜び (海外文学)Joy 喜び (海外文学)
(2013/10/01)
OSHO

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もしあなたが幸せを追求しているのならば、
ひとつだけ確かなことがある。

あなたがそれを手に入れることはないだろう。

幸せは常に副産物なのだ。追求した結果ではない。


「憎しみにある人たちの中にいても、喜びと愛の中に生きなさい。
 苦しんでいる人の中にいても、喜びと健康の中にに生きなさい。
 不幸な人たちの中にいても、喜びと平和の中に生きなさい。
 輝いている人のように、所有せずに喜びの中に生きなさい。
 勝者は憎しみを蒔く。なぜならば、敗者が苦しむからだ。
 勝敗を手放し、喜びを見つけなさい。    ゴータマ・仏陀 」


あなたはすでに存在していない何かを相手にしている。

不幸が昨日から来ようが、明日から来ようが、
それは決してここには、今にはない。

今この瞬間、この今、不幸は不可能なのだ。

すると幸せは可能なだけではなく、
それはすでに起こっている。

それはあなたのすぐ前にあるが、よそを見続けているために、
あなたはそれを見過ごしているのだ。

幸せはあなたがいるところにある
-あなたがどこにいようと、幸せはそこにあるのだ。


それはあなたを取り巻いている。それは自然現象なのだ。
それはただ、空気のような空のようなものだ。

幸せは探し求めるものではなく、それは宇宙を作っている
原料そのものだ。喜びは宇宙を作っている原料そのものなのだ。

そしてあなたはそれを直視しなければならない。
あなたはそれをすぐに見なければならない。
もしよそ見ををしていると、
あなたはそれを見過ごしてしまうだろう。


日本語翻訳本なので読みづらいところも多いですが

この部分がとても印象に残った。

DATE: 2013/10/17(木)   CATEGORY: 幸福
感謝は「行為」ではなく「気持ちの表れ」である! もっと あの世に聞いた、この世の仕組み より

感謝は「行為」ではなく「気持ちの表れ」


「もっと あの世に聞いた、この世の仕組み」ブログより
http://blog.goo.ne.jp/namagusabose/

変わったのは「意識の持ち方」ではなく、「意識のあり方」なんです。
多分、ここが「気づき」の有り無しで一番違う部分なんだと思います。
そして、いわゆる「成功哲学」と「精神世界」の大きな違いでもあります。

成功哲学の多くは「意識の持ち方」を指摘します。
一方、精神世界は「意識のあり方」を指摘します。

その内容を言葉にすると、どちらも「幸せの実現」に向けてのお話なので混同されがちですが、
この二つはベクトルが全く逆なんです。
どちらが良い悪い、と言うことよりも、役立てるステージが違う、と言った方が
いいかもしれません。
「幸せの実現」そのものにおける考え方が、まるで違っているんです。

例えば、「モチベーションの高め方」や「ネガティブ思考からポジティブ思考へ」
などといった《意識の持ち方》のお話は成功哲学的なもので、意識が「ファースト・
ステージ」にある時に活用されるものです。
ファースト・ステージは、「幸せ」を未来に設定する次元です。
これから訪れる幸せのために、いま何をすべきか。
幸せが未来に設定されている(「今」が我慢や犠牲などといった、未来の為への
踏み台になっている)ので、そのメソッドが簡単なものであれ、難しいものであれ、
そこには「努力」というものが必要となります。
その次元では、「○○をしたからこそ、□□を手にできたのだ」という因果に
基づく発想が根底にあるので、なんとなく「努力」と「結果」が比例しているかの
ような錯覚を覚えます。
「頑張った分の幸せが訪れる」という感じ。

だから、「大きな幸せを得るためには、もっと成長しなきゃ」だとか、「本当の
幸せを得るためには、人一倍の努力が必要なんじゃないか」「いまの自分には
理解できないような難しい何かをしなければ、幸せはほど遠いんじゃないか」
といったような感覚も同時に存在します。
(また、その感覚が強ければ強いほど、「努力をしていないのに幸せそうな人」
に違和感を覚え、その違和感が怒りなどにカタチを変えて表れたりもします)

でも、実際の現象界の仕組みは「頑張った分の幸せが訪れる」という構造では
ありません。
人生のどこかで「こんなに頑張っているにも関わらず、幸せが訪れないのは
なぜなんだ?」という壁に突き当たります。
それでもなお、ファースト・ステージの中に意識を置いておくと、「幸せを
実現するための、新たな原因探し」が始まります。

「そうか、きっと私の“原因”の設定や、やり方が間違っていたんだ。
正しいやり方を見つけなくては!」そして古今東西の「ああしてみましょう」
「こうしてみましょう」という情報検索と、検証が繰り返されます。

「精神世界」で語られている内容は、上記と全く異なります。

幸せを「未来(理想)」ではなく「今(現状)」の中に見いだす、そのことを
話しています。
話の前提に「未来」がないので、「ああしましょう」「こうしましょう」と
いった、「原因」が存在しません。
原因が存在しないので、「幸せになるには、どうすれば?」という質問に
答えられません。

ただ、意識を「未来や過去」のある次元から、「今」の次元へ移動させる
だけだから。

幸せを「今」の中に見いだすと(勿論、そこにしか見いだすことができない
のですが)、それに次いでおのずと「感謝」というものが顔を出します。
意識がファースト・ステージにあると、この言葉が歪んでしまいます。
「原因」を求めているがゆえ、今度は「感謝」を「原因」として使い
出そうとしたんです。

「ありがとう。ありがとう。ありがとう。ありがとう。ありがとう。
ありがとう!」そうやって、繰り返し「ありがとう」と唱えていくことで、
未来に幸せがやってくる。
そんな風に捉えてしまう。

でも、それは違います。

感謝が幸せをもたらすのではありません。
感謝は、それ自体が幸せの質です。


そもそも、感謝は「行為」ではありません。「気持ちの表れ」です。

「目覚め」や「さとり」という言葉においても同じです。
それを、「未来の幸せのための原因」として捉えないでください。

「今に還る努力」も必要ありません。

その努力(緊張・コントロール)が、意識を「今(リラックス・ゆだねる)」
から遠ざけてしまっているのですから。
「自分を変えなければ!」「状況を変えなければ!」
それが、人生においてずーっと続いてきたのであれば、「変えなきゃ」
という意図を手放すことの方が、「変わる」ことになるのですから。


いつもながらわかりにくいことをわかりやすく表現されていて感銘を受けますね。

意識はいつも「今」にフォーカスして、
「今」の中に幸せを見いだすことが大切!



 
DATE: 2013/10/12(土)   CATEGORY: 幸福
「死は存在しない、僕たちは死なない」 もっとあの世に聞いた、この世の仕組み より
「もっと あの世に聞いた、この世の仕組み」 著者 雲 黒斎

書評と感想 ②

「死は存在しない」、つまり「僕たちは死なない(死ねない)」

僕たちは出産の前から命はある。
では、もし命が、どこかの時点で宿ったり失われたりするような
ものなのだとしたら、その命は、いつ宿ったと言えるのでしょうか。

何かに命が宿ることがあるとするならば、まず先に、
命が宿っていない何かが必要になります。

僕たちが「命が宿っていない何か」「生きていない何か」だった
ことはあるでしょうか。
それは、まだ肉体が形成される前の「受精卵(胚)」でしょうか?
いや、確かに形としてはまだ人型になっているわけではありませんが、
受精卵だって休むことなく細胞分裂を繰り返しているのですから、
すでに「生きて」います。

ではそれ以前。
精子や卵子だった時はどうでしょうか。
それは、「生きていない何か」だったでしょうか。
そんなはずはありませんね。精子も卵子も生きていたからこそ、
それが結びついて受精卵になれたわけです。

と、いうことは……。あれ?
僕たちが何となく漠然と持っていた「一人に対して一つの命」と
いうその考えをそのまま活用するとおかしなことになってしまいます。

「精子には精子の命」、そして「卵子には卵子の命」が必要なはずです。

だとしたら、その二つが結びついた胎児には、精子分の命と卵子分の命、
つまり、二つの命が宿っているという話になってしまいます。

本当にそうであるなら、僕たちは「二度死ねる」ということになって
しまいますが、そんな人には出会ったことがありません。

つまり、僕がかつて抱いていた、
「僕の身体に僕の命が宿っている(一人に対して一つの命がある)」
という考え自体が大間違いだったということです。

僕だけの話ではありません。
単独として人の身体に宿る命など、誕生したことはありません。
最初からないのだから、失う事もできません。
だから、とても不思議なのですが……僕たちは死ねないのです。

命は、生まれることも、失われることもありません。
増えることも、減ることもありません。

しかし、『自我』と呼ばれる「私」という感覚は、
生まれたり失われたりすることがあります。

この感覚のせいで、僕たちは「生死」という根本的な
誤認を作り出してしまいました。

「自分と自分以外がある」というこの認識のされ方は、
幻想の中で行われている認識・錯覚で、本来存在のすべては
一つの同じものである。ゆえに、生命は複数存在するものではなく、
唯一無二の存在であり、人はみなその同じ命を共有している。
また、「自分」が命を所有しているものではなく、命そのものが
「自分」であるため、「命を失う」ということ自体がありえない。



「もっと あの世に聞いた、この世の仕組み」より
http://blog.goo.ne.jp/namagusabose/



なんかこの内容に納得してしまう。
肉体の生死と精神の生死を混同するから矛盾が生まれるのですね。


これを裏付けるような内容が続きます。。。

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